昭和五十年十月二十三日 御理解 第二節「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてると言う事がない」
先の世までも持って行かれ、子孫までも残ると言うのですから、私自身、自分自身がまあ先の世まで持って行かれるか、どうか分からない又子孫に残るかどうか分からないに致しましても、問題は私自身がこれが御神徳であろうかと言うものを、自分がそれを感じられるものに焦点をおかねばなりません。
第一神徳を受けるか、神徳のない間は心配をする、身に神徳を受ければ心配はないと仰る と言う様に自分の心の状態がどんな場合であっても、神徳をうければ心配はない、いわゆる神徳を信じまた神様から信じられておる事が分かるからですね、だからそう言う私は神徳をあの世に持って行けるかどうかわからない、なら子孫に残るかどうかも分からないけれどもです、私自身がこの世でこうして誠の信心をさして頂いても、その神徳を受けとかにゃならんその真の神徳こそ限り無くおかげ頂けれる信心であり、神徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はないとおうせられる様な、喜びの信心生活が出来るのです、だからそれを目指すのです。
一寸した事に心配になる、いらいらする腹が立つと言われる間は神徳を受けていない証拠です、だから神徳、持って行けるとか残して行けるとかと言う事を此処でなら信ずる、教祖様がおっしゃるとだから、そうだろうと思うけれどもです、その持って行けるものものこしておけるものも、ないとは淋しいじゃないですか、そこで本当で私自身が神徳を受ける信心をさして貰わなければいけないと言う事です、そしてああこの喜び、この安心、この喜びこそがあの世に持ってゆけるんだろうと感じられる時に、死生の安心も出来ます。成程それがこの世にも残るんだろうと言う事が分かって来るのです。
昨夜田主丸地区の共励会でした、文男先生がもう私の部屋に参りましたのは、やんがて一時もあったんではないでしょうか、何かえらい昨日は念の入った共励会だったそうです、まあ足を揉んでもらいながら信心話しを一生懸命さして貰いよりましたから、丁度もう二時半、先生が私の部屋を出る時にはもう二時半でした。
その中に最近のいろんな宗教関係の活発な布教が行われておる、いろんな宗教の話しを致しとりました、どう言う訳で今の金光教はもう真が止まった様に伸びないないのだろうかと、それも本部当局としてそれに気が付かせて頂いて、御取り次ぎ成就信心生活運動と言うのが展開されてる、そして二十五年にもなるけれどもそう言う運動が、あっておるにもかかわらず一つも信心が伸びない、どこの教会でも五十人なら五十人、百人なら百人の信者が出来ると、それきりでプツッと芯が止まってしまっておる、こう言う有難い教えを持っておる、教団がどう言う訳にそう言う事になるのだろうか、とにかく金光教は消極的だからと言う事に原因がおかれる様です。
そこで本部としても積極的なまあ言うならば若い青年教師等は街頭にでも進出して、信者獲得と言うか布教して行かなければいけないと言った様な、積極的な今話しが出ているのです。ところがね、それは〇〇教か〇〇宗ならそれで良いかも知れんけど、金光教はそれではいけん、教祖様がはっきり仰っておるように、この方の信心はふれ売りするなとおっしやっとる、ふれ売りせんと言うのが金光教のまあ流儀なんです、おかげを受けたそれからおかげを受けた者へと、伝わって行くと言うのである、そこで金光教の信心を言うならば、じっとしてお客さんを待っておるような事ではなくて、積極的に布教活動をしなければならないと、まあそう言う事がまあいろいろ会議があるたびに、そう言う事が練られとるのでしょう。
それではね大した事はないそれも必要でしょうけれども、一番根本なのは所謂神様の御発動をうけなければならん、神様が発動しださねばいけない、人間の五十人百人の言うなら力では、どうにもできないそれこそ千万人の力を一つにして表す事の出来れるためには天地の親神様の、言うなら御発動を受けねばならない、例えば材木を割くといたいましても昔は木挽きさんがのこで引いて何日掛りで、大きな材木なんかわ挽いた、それを例えば今の製材所に持って参りますと、ボタン一つ押しますとあの発動機がガーッと回るもうアッと言う間に大きな木を割いてしまう。
神様の御発動を受けるとはそう言う事なのです、だからその真のスイッチがどこにあるか 神様の御発動を受けるためにはどう言う信心をしたらよいかと言う事を、にまあうといからだと、そこのところに焦点をおかないで只、活動がたらん、信者にはあんたどんお導きをせんからだと言い、と言う様な事では金光教もやはり芯どまりになってしまう、そこで教祖様が仰っておられますように、ふれ売りはせんと言うのですから金光教の信心は本当は消極的なようであって、実をいったらもうそれこそ素晴らしい積極的なんだと言うのは、積極的と言うよりも超積極的なんだ。
まあ食べられんから外へ出てまわる、これも積極的でしょう、売れんから外に売りにまわる様なものだ、けれども店が信用を受ければこちらから大した広告もせんでも、呼びかけなくても向こうの方から、どんどんお客さんの方から買いに来てくださる、その信用がないからなんだそこで信用を得ると言う事が、御信用をうけると言う事だ、天地の親神様の御信用を受けると言う事が神徳を受けると言う事である、だから神徳を受けるためにはそれこそ言うならば、一心の信心、死んでもままよと言う信心、お道の取り次ぎ者がです、此処お結界、畳み半畳に座り込ませて頂いてです。
もしこのままお参りがないならば自分はもう一家はもうのたれ死ぬかもわからない、けれどもそこに命をかけて一心に御結界に座りぬかせて頂くと言う、おかげそのかわりに一人でも二人でも参って来たが最後、助けずにはおかんと言う働き、取り次ぎ助けずにはおかんと言う信心、死んでもままよと言う、信心ですからこりゃもう超積極的です、ジーッと座っとるから如何にも消極的の様にあるけれども、その精神たるや死んでもままよと言う一生懸命なのです。
その死んでもままよと言う、一生懸命の信心にです、十二分の徳を受けようと思えば、ままよの心を せよとままよとは死んでもままよの事ぞと、言う様なその信心が今の金光教には欠けておるからだと言うて、まあ文男先生と二人で話した事でした。
御神徳を受けると言う事はそう言う事なんです、只一生懸命やりよると言うだけでは、何か事と言う時にはもう慌てるような事ではなくて、そこにどん腹をすえてままよと言う心で神様に向こうて行く、そこから徳がうけられる、その徳に伴って来るところのおかげなのです、そう言うものが私は今の金光教に欠けておる。
そう言う信心が言うならば御神徳を受けるのである、これは合楽示現活動に参画すると言う事が合楽で言わば起こされていくら説明しても、只合楽と言う言葉がどうも皆さんの外の教会の人達が聞くと、合楽の者はあいらくの事ばかり言うと、そこで何とか誰にとでも合点の行くような、合楽と言う言葉を使わずに神様が不思議な働きを示し表して下さる程しの運動に参画出来る様な、事はできないもんだろうかと思いました、昨日フッと感じました事は教祖様が仰っておられる、信心すれば誰でも御神徳を受けられると言われる、信心とはこの方の信心は神人だと、おっしゃっとられるところがございますね、金光大神覚ですよ。
此の方の信心は神人と書くのじゃと仰る、神と人とが言わば助かり会って行くのが信心じゃと言われる、お道の信心は神人じゃ、神人じゃとこう仰る、だからお道の信心を神人じゃと仰っておられる様な信心をすれば、御神徳が受けられる、神徳は信心すれば誰でもが受けられると仰るのは、此の方の信心は神人と書いての信心じゃと、合楽と同じ意味になるのです、それで神人示現活動参画となれば、これは全教の誰でもが分かるだろうとこう思います、これは信心すれば誰でもおかげを頂く事が出来ると言う事を教えておられますから、なら信心とはどう言う信心をさし貰えば、それと今日私は超積極的だと金光教の信心は、愈々の時にままよと言う心を出して貰う、ままよとはもう死んでもままよの事ぞと、おかげの事は右になろうと左になろうとままよと、言う様な信心の稽古を積んで行くところから、信用がついて十分の徳が受けられる様になる。
もう少し内容的に言うと、信心とは教祖が仰る信心は神人と神様だけが助かる人間だけが助かる、と言うのではなくて神様と人とが共に助かり合って行くのがお道の信心じゃと言う事になるのです。
どうすれば神様が助かって下さる、どうすれば自分自信が助かるかと所謂これはいつも申しております、いわゆる合楽です、今日の信心をすれば誰でも受ける事が出来る、満てる事がないと言う程しの神徳は神人と、此処では表現しておられるが、教祖が仰る信心とはその内容は神人と言う信心です、そう言う信心をです頂かして頂きたい、只そしてこれが御神徳であろうかと言うものが自分の心の中に頂いて行く、しかもその御神徳にはつきる事のない、おかげが受けられる、勿論神徳を受ければ心配はないと、おうせられる心に不安も心配もないと言う状態が、愈々本当なものになって来る。
これこそが神徳だと自分で頂けて、おかげを受けて初めてです、これをあの世に持って行けるんだな、また子孫にも残しておけるとは、これだなと自分でも合点が行ける事になります、積極的な信心から超積極的な信心にならしてもらわねばなりません。
信心すると言うても此の方の信心は神人じゃと言われるのですから、此処に言わば誰でもが合点の行く言うならば合楽と言う言葉を使わんで所謂、神人示現活動に参画する、参画して頂くと言う信心こそ私は御神徳を受ける信心だと思います。どうぞ。